意識とクオリア01*意識とクオリア12*その236知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*イメージ思考でいこう* 意識とクオリア12 (加筆した個所のある部分など) 質の科学において、「意識」とはなにか 最も根本的・本質的な「意識」の定義、質の科学における定義、を七つ挙げてみよう(それには必然性がある。そこのポイントは分業である。たぶん現実に対応しているだろう。それは現実を表しているかどうか検証可能な命題である); 「哲学者や科学者たちその他の人々のいう意識ではなく、辞書に載っている意識でもなくて、医学的に意識がある・ない、というばあいの意識にかなり近い意味内容をもつ意識であって、感じ味わう能力・機能・働きのようなものとその実体・実態であって情報処理能力・機能を含まないもの」 注)ここでいう情報処理能力・機能とは、「脳活動」のすべてから意識という活動の働き・機能・実態・実体を除いたものである。 注)直近の注)で、「脳活動(=脳髄活動)」という表現を打ちだしたが、それが一言でもっともわかりやすい言葉・表現であるからである。 それが含むのは文字どおり脳髄活動のすべての機能・働き・実体・実態(と普通思うものたち)であって、一言ではほかには表現できない(ただし、霊魂のような存在があったとしたら、その働きについても述べていることになる)。 知・情・意とか、知性・理性・悟性とか、考え方、思考力、想像・創造力、記憶活動、情報処理、性格・性質・才能・能力などを司る脳活動、身体の動きを司る脳活動、感覚を司る脳活動、本能・生命維持などについての脳髄活動、そういったものすべてをそれに含ませている。 さらにそれに、意識という活動・機能・働き・実体・実態をも含ませている。 (ここに並べ挙げている脳活動の具体例の表現は、形式が統一されていません) 注)脳活動という表現には、唯脳論の立場、唯心論の立場、それら両方の立場を含ませています。 質の科学では、唯心論が正しくて、唯脳論はまちがっているとか、唯脳論が正しくて唯心論はまちがっている、などと決めつけません。 つまり、質の科学では、唯脳論の立場、唯心論の立場、それら両方の立場にたって研究していきます。 (それは、物質には、粒子性と波動性の両方がある、という物理(学)的事実を受け入れる立場にそっくりです。たぶん両方が実在し補いあいながら機能しているのではないか?<それは仮説です>)。 注)哲学者や科学者も、質の科学のいう意識、その存在を考えてこなかったようです。それはなぜなのか私は不思議でしょうがない。 それはたぶん、普通、人は、自分が自分であるのは、自分の、すがたかたち、周りの人たちとの関係、境遇、所属関係(家庭、グループ、職場、地域、国、など)、記憶、考え方、今まで育ってきた累積(積み上げ)、性格・性質、才能・能力、性別、実績、現在の活動・言動・心境、などによる、と考えているからだろう。 そこに自分という意識も存在する、とみなしているからだろう。 それはそれで正しい。 私はほぼ最初から、 (高校生の頃からだったと思う。高校生の時に<超異理論>というタイトルのノートを起こし、そこに「解質」というおそまつな考え方を記している。その「質」というのは、質の科学の質である。そのあと、超異理論→質論→質の科学と表題を変えてきたし、運動量保存則みたいに保存されるところの人間における何か→質時間保存→保存ではなく質時間回帰、と変遷してきている)、 質の科学のいう意識、に着目していた。 私のばあい、 「なぜ自分はいつも自分なのか・自分とまったく同じ人がもう一人いたらどうなるか」といったことを考え続けてきたら、そういう定義の意識にたどりつき、そのほかその定義の正しさを裏づける多くの根拠も拾い集めて得てきた。 注)哲学者たちが説いていることのほとんどは、証明・検証ができないことばかりであるし、哲学者によって見解が異なる(私がちらっと読んだ限りでは。時間がかかりすぎるので全部は読みません)。そういった思考体系たちは芸術である。 一方、質の科学のいう内容の多くには証明のようなものがあり、検証も可能な説となっている。つまり、現実がそうなっているかどうか確認できる、といった次元の内容をもっている。ただし、その検証は非常に難しいことである。そういった意味において、世界哲学(質の科学を採り入れた、人間と世界についての哲学)もほとんどが質の科学に準じる。 注)霊魂・霊魂のような存在、があるとした哲学者たちはいる。それは基本的に検証可能である。ものすごく大変なことであるが。 「今の自分の心身の状態・心の状態・心の活動の状態をモニターする働きとその実体・実態であって情報処理能力・機能を含まないもの」 「人の中にある(意識し)感じ味わう能力・機能・働きのようなものとその実体・実態であって情報処理能力・機能を含まないもの(またはそれを実現しているハードウェア=意識の器)」 「任意の人がその人であることを担保する形而上的なもので、(意識し)感じ味わう能力・機能・働きのようなものとその実体・実態であって情報処理能力・機能を含まないもの」 (任意の人=すべての人がひとりひとり) (形而上的=物質的・肉体的でなく、手で触れられない・精神的・霊的) 「人において、目が覚めている時と、眠っている時の違い(機能している・機能していない、という違いのある機能)の中で、情報処理能力・機能を含まないものであって、(意識し)感じ味わう能力・機能・働きのようなものとその実体・実態」 「人間において、一生変わらない形而上的なもので、(意識し)感じ味わう能力・機能・働きのようなものとその実体・実態(情報処理能力・機能を含まない)」 注)人間において、意識(と性別)以外は、どうにでも変わっていく、さっさと変わっていく。 「人間において、形而上的なもの(もっともわかりやすくいえば、脳活動の機能・実体・実態のすべて)は分業になっていて、その中のひとつの機能のようなもので、PCでムリに例えれば、モニター(画面)にあたるものであって、(意識し)感じ味わう能力・機能・働きのようなものとその実体・実態(情報処理能力・機能を含まない)」 (形而上的=物質的・肉体的でなく、手で触れられない・精神的・霊的) 類似しているように思える概念を含むものに、「心」、「認識」、「認知」、「知覚」、「意図」、「思考」、「配慮」、「自覚」、「注意」、「意志すること」、「思うこと」、「考えること」、「気をつかうこと」、「感じること」、「味わうこと」、などがあるが、それらは情報処理の範疇(カテゴリー)に入る。それらはここでいう「意識」とは異なる。それらは意識から離れた分業になっている。 ただし、「感じること」、「味わうこと」、は、意識を例えるのに最適である(知覚、認識もそうである)。 それらを一言でまとめると、 「意識」というものは、意識し感じ味わうだけの働きをもっていて、その他の人間の精神活動・脳活動のもつ能力・機能・働き・実態はもっていない、 といえる。 つまりそれらは分業になっていると主張しているわけである。それは検証可能な命題である。 (命題=非常に注目される、心の内容や考え、またはそれを短い文・文章で表現したもの) 注)意識の定義の中に、「意識」という単語をカッコして入れているが、念のために入れた。入れた方がはっきりするからである。 注)ここでは、ほかの動物に意識があるかどうかは論じない。 注)このブログによく登場する「意識の主体」という単語・概念は、「意識」あるいは「意識の器」または「意識において他の意識たちと区別されるなにかを含んだものを含んだ意識という概念の実体をも含むところの意識」である(わかりにくいことおびただしい・はなはだしいですね)→「意識において他の意識たちと区別されるなにかを含んだところの意識という内容の実体をも含んだところの意識」→つまり、Aさんの意識、Bさんの意識、Cさんの意識・・・というふうに、意識たちはそれぞれ独立し区別されているが、その独立・区別される(する)なにかをも含んでいる意識(それを特に強調する)、といったような意味・内容です。 普通、人は、自分が自分であるのは、自分の、すがたかたち、周りの人たちとの関係、境遇、所属関係(家庭、グループ、職場、地域、国、など)、記憶、考え方、今まで育ってきた累積(積み上げ)、性格・性質、才能・能力、性別、実績、現在の活動・言動・心境、などによる、と考えている。 それはそれで正しい。 しかし、それらはすべて変化していくものである(性別を除いて)。 それらは、さっささっさと変わっていくし、自分でも普段は忘れているのがほとんどである。 それらは単なる変化していく属性であってある期間だけの一時的なものにすぎない。 つまりそれらは、いわば自分の一時的な(仮の)姿であって、結局は意識内容に変換される対象にすぎない。 その仮の姿を、「意識し感じ味わっている意識の主体」が一生変化しない実体であって、その「意識の主体」こそが自分なのである。 つまり、そこの理解においては、「意識内容」と「意識」とを混同しないことがポイントです。 たとえば、自分が赤ん坊の頃に養子にだされていたとしたら、自分の境遇・周りの人たちとの関係、その他さまざまなものが違ってきていたはずである。 それでも、自分が自分であることに変わりはない。 極論すると、狼に育てられた赤ちゃんは、すがたかたち以外は狼と同じようになってしまうが(表情・見た感じなども狼みたいだろう)、それでも、普通に育てられた場合と同じく、自分が自分であるという意識は変わらない。 さらにたとえば、完璧な成型(整形)手術ができて、自分の顔を別人にしてしまったとしても、自分が自分であることは変わらない。 記憶を失っても、考え方を大きく変えても、性格を変化させても、前述のどれをどう変化させても、正反対に変えても、自分が自分であるという意識にかわりはない。 実際のところ、性別を完璧に変えることができるとして、それをなしても、自分が自分であるという意識にかわりは出ない。 注)転生を認める立場では、転生していくと、性別も反対になるし、意識の主体以外のすべても変化していって正反対になる、という証明のようなものがある。 ただし、転生がある、と断定しているわけではない。検証もなされていない。 転生を認めない立場でも、性別以外はそういった方向に変化していく、という証明のようなものがある。 なぜ、変わらないかというと、「意識の主体」という自分が変わらないからである。 つまり、自分が自分であるのは、「意識の主体」による、ということがわかる。 ほかにも、こういったこともいえる。 脳は分業になっていて、意識の主体以外の、脳の多くの部分を失って、それらの機能や記憶をなくしても、自分が自分であるという意識に変化はない。 それに、脳の中の使う部位(個所)を変えても、自分の意識に変化はない(意識内容が変わるだけです)。 それと類似していることとして、 たとえば、目をつぶっても(つむっても)、見ているものを変えても、耳を塞いでも、聞くものを変えても、何かを思い出しても何も思い出さなくても、何かを考えても考えなくても他のことを考えても、そのほかやっていること何でもを変えても、自分が自分であるという意識は変わらない、といった事実もある。 さらに、 人間の身体も脳も、物質代謝していて、数年(七年ぐらい?)経つと脳のすべては代謝してきてしまっていて、まったく異なる物質の元の個体たちから成ってしまっている(そこにあるひとつの水分子と、あそこにあるひとつの水分子は異なる個体である、ということに代表される意味内容に注目)、ということになる。 その代謝の過程で、脳はかなり変化してきているし、代謝は関係していなくても、脳は刻々変化している。 それなのに、自分が自分であるという意識・意識の主体は変わらない。 そこからも、自分が自分であるのは、一生変化しない「意識の主体」によるということがわかる。 注)この直近の部分から、物質的な脳は、自分の意識を一生同じに保つことはできないのではないか、という問題提起ができる。 加えて、そうなると、いわゆる霊魂と呼ばれるような存在があって、そこに意識の主体があるのではないか、という予感を呼び起こさせる。 ほかにも、霊魂のような存在がありそうである、という根拠はいくつもあります(既にあちこちに記しました)。ただし、霊魂的な存在がある、と断定しているわけではありません。検証もなされていません。 ここまでの内容で大切なものを要約してみます; 意識というのは、脳の全体ではなくかなり小さな一部に対応しており、その意識の部位(部分)こそに自分であり自分という意識があって、それ以外の脳の部分(部位たち)は、意識には関わっていない(意識内容には関わっている)、という結論がでてくる。 以上のことが正しいかどうか、まだ決定的ではないが、この先続いていく論証はその確かさを確信させていくでしょう(転生については省いて)。 ただし、検証するのはかなり難しいので、相当な時間がかかることになるでしょう。 意識の実体・実態とクオリア さて次に、意識・意識の生じる何か、とはいったいなんであるのか研究していきましょう。 まず、 意識とはなんでしょうか? 意識というのは、物質そのものでないことは確かです。 では、いったい何なんでしょうか? 今現在の人類の知識の中で、その答えをだすならば、意識とは、エネルギーに伴われる(伴う)波動の世界である、という解答しかないように思えます。 意識というのは、一体性・全体性を形づくっており、意識は無数の(数多くの)波動パターンをとることができ、時間とともにその波動パターンが変化していく、それが意識である、という答えしか探しだせません。 まず、なんらかのエネルギーによるもので(組織された。あるいは単独の)一体性・全体性を形づくっている意識の器、というものがあって、それがさまざまな波動パターンをとる。 その波動パターンが意識内容であり、そこに意識が生じる。 それらをあわせて、普通、意識と呼んでいるのではないか。 そういう答えです。 今のところそれしかなさそうです。 物質もエネルギーの一形態ですが、波動性・流動性が低すぎるので、まずは、エネルギーという、より波動性・流動性の高い形態のものに着目してみるのです。 その上で、物質の組織では、物質的には一体性・全体性を形づくれますが、波動的には、一体性・全体性を形づくることはできないという事実から、意識というものは、上に述べたようなもの・存在なのだろう、という結論に至るわけです。 それ以外にはないように思われます。 そういった意識、そういった意識の器(ハードウェア)=意識の主体、が脳になんらかの在り方で存在する、ということになるでしょう。 注)意識の主体という用語はハードウェア以外の、意識、という意味に用いることもあります。 そして、その意識の器に、神経細胞たちの活動によって、情報が送り込まれ、その意識の器の中で、意識と意識内容(クオリアも含めて)が生じる、ということになるのでしょう。 そこにおいて、神経細胞たちの活動の局所性は非局所的なものへとなんらかに統合されるでしょう。 注)意識している状態や意識内容は、一体性・全体性つまり非局所性をもっていると理解される。 注)ひとつまたはひと続きの心的内容は、脳のあちこちで処理されており、しかも時間的にもズレがある情報処理によった内容である。前者は同時刻における空間的局所性、後者は時間的局所性、をそれぞれもつといえる。 そこにおける時間についての局所性においては、さほど大きなズレはない。大きなズレについては局所性うんぬんという問題は発生しない (例えれば、映画のフィルムのヒトコマ内で局所性つまり時間のズレの問題が生じるが、別なヒトコマとの関係では時間についての局所性の問題は発生しない。ただし、リベットの実験結果についての問題に関しては除く)。 であるから、時間については、局所性という表現よりも、ズレという単語を当てたほうが適切である。 局所性=部分・一部性 非局所性=全体・一体性 注)心的内容=心によって情報処理した情報のもつ内容。 心的内容は意識内容とは異なる。 心は情報処理に関していて、意識とは直接の関係はなく別ものである。心的内容が意識の器に送り込まれて意識の器の内部で意識内容(波動パターン)となる。 これは定義であるが、今の段階ではその中に仮説も含んでいる。 ただし、質の科学においては、そのほかの在りようたちをも受け入れています。そのほかの可能性を排除しません。 つまり、現在の、世界のそういった方面の研究の立場も、可能性のいくつかとして追求していきます。 質の科学では基本的に、可能性をすべて並べ挙げ、ひとつひとつについてどうなっているか研究・追求していくやり方を多くとっています。 先に述べた「意識の器」の仮定以外に考えられる在り方は、いくつかあります。 それらは、意識の器を物質の組織とみて、研究を進めることになります。唯脳論的在り方です。ただし、先に述べた意識の器については、唯心論的であるとか唯脳論的でないとか、決めつけていません。 つまり、先に述べた「意識の器」の想定・仮定も、「意識の器」は物質で構成されているケースも含めている、ということです。 そこにおいてはまず、こう場合分けします。 「脳全体が意識の器」 「脳の一部が意識の器」 「脳全体が意識の器」であった場合、さらにふたつのケースに分けられます。 「意識自体と、脳の意識以外の機能が分けられるケース」と、 「意識自体と、脳の意識以外の機能が分けられないケース(つまり、意識自体と、脳の意識以外の機能が一体となっているケース)」です。 その後者のケースにおいてさらにふたつのケース、に分けられます。 「意識以外の機能はまったく変化していかないケース」と、 「意識以外の機能は変化していくケース(意識も変化しない。これはすべてに共通です)」です。 その後者においては、全部が変化していくケースと、部分的にしか変化していかないケースに分けられます。 そういったふうに、可能なあらゆる場合分けをして、すべてのケースを検討していくのです。 質の科学においては、そこから最も可能性・必然性の高いケースを選びだし、その証明を追求し、それを検証にかけようとしているのです。 つまり、質の科学においては、意識以外の機能もまったく変化しないケース(意識も変化しない。これはすべてに共通です)だけ特別に扱っており、その上で、それが事実である可能性を否定しています(現実はそうでないということ)。 そのほかのケースにおいては、まったく同じ結論が導きだされます。つまり、人においては、意識以外はどうにでも変化していけるし変化していく(性別を除いて)、そのほか、ということです。 (詳しくは別なところで記します)。 この章のここまでの仮説の解説をかんたんにまとめると、 脳は分業になっていて、意識の部分・部位、その他の機能の部分・部位たちに分けられ、後者たちはどうにでも変化していくし変化できるが、意識は変化せず変わらないために自分はいつでも自分である、 その意識とは、エネルギー的な存在であり、その中での、エネルギーの波動パターンが意識内容である、 ということになります。 注) 先に述べた「意識」の定義から、同じ人の意識は一生変化しない、という結論がでてきます。それを「意識不変の原理」と名づけましょう。 あるいは、同じ人の中で、一生変化しないものは「意識」であるとして(「意識不変の原理」を設定する)、そこから「意識」を定義することもできます。つまり、変化していくものは「意識」を構成しない、ということです。 以上のように、質の科学において、「意識」については、「意識不変の原理」というものがあって、意識自体は決して変化しない、それとは対照的に、意識内容は千変万化していく、という解釈の立場(実際がそうなっていると)に立っています。 脳の情報処理における変換 さて、 人間の外からの情報を感覚器官で脳に送り込み、さらに意識の器に送り込むにあたって、その流れの中にある変換の在り方にはどういったものが考えられるのでしょうか。 あるいはそれに加えて、 脳の活動(思考、感情、知性、その他)による心的内容を、意識の器に送り込むにあたって、その変換の在り方にはどういったものが考えられるのでしょうか。 (それらふたつの項目の内容の実体は、複合している・絡まり合っている) 前にも触れたように、そこでは、ニューロンたちの局所的な活動が、非局所的で一体性・全体性をもつ心的内容・意識内容へと変換されています。 その変換について考えつくままに列記してみます。 フーリエ変換 ホログラフィー変換 走査 ツイスター変換的変換(これは、茂木健一郎さんのサイトで知ったもので、茂木さんのアイディアです) などが参考になるかもしれません。 フーリエ変換は、時間経過を伴った対象の情報の変換において時間をたたみ込んでしまう。 ホログラフィー変換においては、空間配置に関して、全体に部分が含まれ、部分に全体が含まれてしまう。 走査は、対象の情報化において、時間のズレがあっても、それをゼロにしてしまう(ゼロにみえるようにする)。 ツイスター変換的変換は、局所的なものたちを非局所的な在り方に変換する。 ただし、そういった変換に類する変換ができたとしても、変換された情報の送り込み先というものはあるはずであり(先に述べたことの延長線上にある仮定)、そこは、一体性・全体性を形作っている何か、つまり「意識の器」でしょう。 その対応・変換、は、意識の器・意識内容の「実体・性質・特性・規格」が出発点になっていることはいうまでもありません。 意識の器・意識内容の規格を考慮せずに、脳の中でたんに変換としてよさそうな変換をやってみたら=脳がそうつくられていたら、それがちゃんと、意識の器の機能・意識内容の規格、に正確に対応していた、などということは考えられないからです。 ただ、脳に直接端子を設け、音や映像の装置からの信号を送り込み続けると、脳はそれに適応していく、という現象・事実を現す、ということはあるそうですが。それもなんらかに関係しているのかもしれません。 質の科学における「意識」「意識の器」と変換へのアプローチ そこで、 「意識」のもつ特性である、一体性・全体性、が、脳の中において、脳の活動において、どう構成・現出されるか考えてみましょう。 脳のなかで最も波動性が高いのは電子です。 中間子は一時的にしか現れないだろうし、その波動性は電子よりはるかに小さいものです。 クォークがあるとしてもまずは現れないだろう(結合して納まっているという感じですか)。 超ひも理論の超ひもがあったとしてもそれも現れないだろう(これも結合して納まっているという感じでしょう)。 その電子にアプローチしてみましょう。 特殊な関係性をもったふたつの電子が、どんなに離れていても、瞬時に特殊な情報みたいなものを交換できる、という現象はあるけれども、 意識やクオリアに関わっているようにみえる数多くの電子たちが、一体性・全体性を形づくることはない・できない。 とくに波動性においてそうである。 (物質的にですらそうであるともいえる。離ればなれである) そういう結論に至ります。 ということは、電子たちは「意識の器」を構成できないということになります。 (電子一個または数個のなんらかの状態に意識が生じる、とすると、おかしなことがいくつかでてきて、その可能性は否定されるだろう。たとえば、一人の人間が数兆の意識をもつ、などといったことがでてくる) つまり、「意識の器」というものは、物質的には構成できない・つくれない、ということになります。 となると、いったいどういうことになるのでしょうか。 人間には意識はないということになる、ということはないのは確かです。 ということは、「意識の器」というものは、先に述べたように、なんらかのエネルギーが一体性・全体性をもってひとまとまりになったものである、とするしかないということでしょう。 ついで、その変換ですが、 質の科学では、そこのところは、 「なんらかに変換して」 で済ませています。 それで十分なんです。質の科学においては。 なぜなら、質の科学では、意識の主体(意識の器)というものの存在は、さまざまな根拠からいって、自明のことである、としているからです(まだ仮説ではある。検証もなされていない)。 つまり、脳はさまざまな情報を局所的・並列的に処理しているけれども、それらは結局なんらかに変換され、意識の主体(器)に送り込まれ、そこで意識・意識内容(クオリアを含む)が生じる、という結論を得ているのです(まだ仮説ではある。検証もなされていない)。 よって、変換については省略してもかまわない、ということである。 そこをもっと詳しく追求していくとこうなります。 まず、脳の中で、局所的に情報処理を行っているニューロンたちの一団、そういった一団が数多くあり、それらの一団たちの多くが欠けても、意識は変わらず存在する。 ということは、それらは、意識を担っているのではなく、意識に送り込む情報の処理をやっているにすぎない、ということになります。 (そのことは、意識は決して変化せず、それ以外の脳の機能たちはどうにでも変化できるし変化していく、ということでもある)。 ということは、「意識の器」はどこかに存在する、ということになるでしょう。 (それに関してもその他にもいくつもの根拠があり、それらを私のブログ(楽天ブログ。ハンドルネーム・春楽天)のあちこちに挙げてあります(私のノートやPCなどにも書き込んであります))。 さらに可能性として考えて、 脳がホログラフィー的な在り方をしていたとしても、結局は、「意識の器」は存在するという、同じ結論に至ります。 そういった「意識の器」にしか意識は生じないという結論を得ているからです。 その変換と数学 現在、意識やクオリアの研究において、先に述べた変換が課題になっているようなので、私もそれに非常に強く興味をもちました。 私の数学の力は、まったくもってたいしたことはなくて微々たるものですが、私はなんでも考えたがるので、ヒマが増えたら、それに挑戦するかもしれません。 数学というのは、既存の数学の中に必要なものがなければ、つくりだせば(発見すれば)よい、という興味深いものでもあります。 その数学が矛盾なく働き、現実に適用したばあい、現実に対応した結果を示せればそれでオーケーなわけです。 おもしろいですね。 そういった数学によって、有効な変換が探しだせ、結論にたどり着いたらたぶん、先に述べた「意識の器」の存在が導きだされていることになるでしょう。 「意識の器」へのアプローチ さて、「意識の器(主体)」なるハードウェアについてさらに研究を進めてみましょう。 すでにそういったモデルのイメージをいくつか挙げましたが、もっと記してみます。 1。ごくごく薄い膜の袋の中に気体が詰まっているようななにか、というイメージ。 2。中心部あたりに、引きつけるエネルギー的ななにかがあって、周りを引きつけられるエネルギー的ななにかが取り巻いている、あるいはそれに定常波的ななにかも加わる、というイメージ。 3。ある程度以上近づけば反発しあい、ある程度以上離れれば引き合うというエネルギー的ななにかの集合体。 4。たとえば、変動電界(のようなもの。変動エネルギー場)と変動磁界(のようなもの。前者と対をなす変動エネルギー場。あるいは別な変動エネルギー場)が、その法則に従ってうねりあっていて、しかもボールのようにまとまっており、移動しないでいられるなにか、というイメージ。 以上をイメージ思考で拾いあげたのですが、それらを数学的に記述できるのでしょうか。 <1。>は、音波の力学で攻めたくなるモデルです。 その袋の形状が変化する、という条件を与えると、手がつけられなくなるのかもしれません。 <2。>は、原子構造をモデルにしていますが、原子構造が数式で完全に記述できているわけではありません。 それに、そのやり方では、目的を達成できそうにありません。 そのモデル自体を否定する根拠は見いだせていませんが。 <3。>について。化学などの概念の中に、そういった力の関係のある存在があると考えたことがあります(たとえばゴム)。 それは、拡散せずしかも移動もしないでいられるという「意識の器」の条件を満たしています(それは、ここに挙げた4つのモデルすべてについていえます)。 <4。>の一部は、電磁波をモデルにしていますが、それだけではなく、ボールのようにまとまっていて、しかも移動しないでいられる何か、という条件が加わっています。 これも非常にユニークでしょう。 コンデンサーとコイルを多数組み合わせると、その電子回路的な模擬モデルがつくれるかもしれません。 そのほかにも; 5.池の水面に、砂粒をたくさん投げ入れると、砂粒たちによって波紋源がたくさん発生し、それら波たちが合成されて複雑な波紋のパターンをつくりだす、そういったイメージで多次元(三次元以上)のモデル。 6.超ひも的な存在によって構成され、波動性が非常に高く波動性においてひとまとまりになったもの、というイメージのモデル。 7.波動性の非常に高いエネルギーたちがなんらかの結びつける力によってひとまとまりにされ一体性・全体性を形づくっているもの、というイメージのモデル。 そういったものが考えられます。 こうアプローチしてきて、気になってくるのは、フーリエ級数・展開・変換です。 そこで、意識の器の中での波動パターンについて研究してみましょう。 (時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません) 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